20年以上前、僕は大学の先輩の誘いで、初めて恵比寿ZESTに行きました。恵比寿駅から5分ほど歩いた通りに、突然現れる大きな店舗。デザインされたトタンが外壁に敷き詰められ、工場を改造したような異様な店舗に一歩足を踏み入れると、広い天井と照明によって彩られた3階建て420席の空間が広がっていました。働くスタッフの表情には誇りが満ちていて、「YES!」という統一された声が、にぎやかな空間に響いていました。ジリオンで働く人は、きっと僕と同じような原体験を持っていると思います。素晴らしい場所で過ごす楽しい時間。その圧倒的な空間に魅了されて、僕は「ここで働こう」と決めました。

恵比寿ZESTの運営会社であるグローバルダイニングの最終面接。グローバルダイニングでは喫煙者を採用しないという方針でした。当時タバコを吸っていた僕は、最終面接前のアンケートの「喫煙」の欄に○を付けて、最終面接に臨みました。最終面接官には「堂々と喫煙に○をしてくる神経が分からない」と言われましたが、尖っていた僕は「あれだけのサービスを提供する会社が、喫煙者というだけで否定する意味が分からない」と反論し、結果は見事不合格。納得がいかない僕は、だったら別の方法で働こうと考え、原宿のZESTにアルバイトとして働くことにしました。

ただ、当時のグローバルダイニングには売上・利益によって店舗に明確な序列があり、恵比寿ZESTが頂点、原宿店は最下層でした。学生だった自分にもわかるぐらい、店長はモチベーションが低く、毎日酒の匂いをさせながら不機嫌そうに出勤してきました。想像していたZESTとあまりにも違うことに落胆し、辞めようかと思った時、原宿店に新しい店長として赴任してきたのが、菅原でした。

菅原は、恵比寿ZESTの二代目店長でした。どういう経緯か、詳しい事情は僕も知りませんが、200人を率いた恵比寿ZESTの店長から小さな原宿ZESTの店長への異動は、いわゆる都落ちです。ただ、僕にとっては幸運でした。飲食人としての僕の基準は、菅原の背中を見ることで創られました。菅原は、いつも出勤時間よりも早く来て、店の隅々まで掃除をしていました。フロアによく通る声、店全体への目配り、どんな時も絶やさない笑顔。菅原は本当に「どんな時」も菅原でした。気分や機嫌に左右されることなく、自分をコントロールして高いパフォーマンスを出し続けました。

また、降格人事に対して、菅原なりに思うところはきっとあったはずですが、菅原が悪口や不満を口にすることは決してありませんでした。会社や上司のために働くのではなく、自分が店長を務める店、自分がともに働く仲間、自分自身のプライドのために働く姿は、まさにプロフェッショナルでした。菅原の姿勢は、またたく間に店のスタッフ全員に伝播していきました。圧倒的に高い基準を、言葉だけでなく行動で示すことの威力。多くを語らずとも「俺たちはプロだから」という言葉だけで、背筋がピンと伸びる感覚。社員のみならず、アルバイトも、いつのまにか原宿店の売上のことを口にするようになりました。

グローバルダイニングでは、毎月売上・利益の店舗ごとのベスト3とワースト3が発表されていて、各店舗が売上・利益で評価されていました。ただ、菅原が来るまでの原宿ZESTでは、「売上・利益は店長の責任」と僕も含めた誰もが他人事のように捉えていました。そんな自分たちも、お店を訪れたお客さまがファンになり、売上に繋がっていくことを身を持って体感していく中で、自分たちの成果の証としての売上・利益に関心を持つようになっていたのです。それまでずっと未達成が続いていた原宿ZESTは、菅原によって蘇り、奇跡の復活を遂げようとしていました。

ある月、遂に数年ぶりの達成が見えてきました。いつも通りの売上を上げれば、達成できる見込みが立った最終日。僕は遅番の担当でした。「もしかしたらもう達成しているかもな」と思って20時に出勤した僕は、店内を見て目を疑いました。お客さんが全然いない。突然、全く風が吹かなくなるように、お客さんが来ない日が、よりによって達成のかかった大切な最終日に来てしまったのです。菅原と料理長は、喫煙所にいました。「吉田、タバコくれ。ダメだった」と、普段はタバコを吸わない菅原がうなだれる姿を見て、以前の僕なら「大変でしたね」で終わりでした。けれど、達成という目標は、もはや菅原だけのものではなく、みんなのものであり、僕のものでした。

新メニューがあるわけでもない、割引があるわけでもない。特別な誘引材料がない状態で、何ができるだろうか。僕はとにかく店の周囲を歩き回って挨拶をし、常連さんに電話をかけました。「来てください」とは決して言わず、ただ自分が今この時間に店にいることを暗に伝えるだけでした。しかし、菅原の背中を見てサービスを学んだ自分には、いつのまにかたくさんのファンと呼べる常連さんがついていました。「いつも忙しそうだけど、今夜なら吉田に会えそうだし行こう」ということで、だんだんとお客さんが訪れはじめました。

10人、20人と増えていき、ついには60人の店が満員になりました。さすがに自分のキャパシティを超えていて、バーカウンターから一歩も出られない状態でした。けれど、常連さん全員の顔が分かるので、何を注文するかが分かる。60人で混雑した店、殺到する注文でバーカウンターから出られない状況、それでもファーストオーダーさえとれれば、後は何とかなる。お酒が無くなりそうなタイミングのお客さんを見れば、「同じやつ、おかわり」「あの黒板のやつ、2杯」とジェスチャーで伝えてくれる。動きっぱなしの6時間で、普段の3倍の売上をつくり、店はその月の達成を果たしました。力を使い果たし、早番の人が10時に来てもまだ片付けが終わっていない状態でしたが、「達成しましたよ」と菅原に報告して「マジかよ!」という嬉しそうな声を聞いた時の喜びは、今も忘れられません。飲食人としての僕の、プロフェッショナルの原点は、あの奇跡の夜なのだと思います。
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